論証のレトリック──古代ギリシアの言論の技術 (ちくま学芸文庫)

あの人の意見は説得力がある。そういう言い方を聞いたことはありませんか。科学の世界では内容は間違いだが素人を錯覚させるような論説を指して使われますが、人文学では良い意味で使う人が多数です。日本の人文学の研究の多くが素人のママゴトであることの証拠とも言えます。古代のギリシアでは政治は自由民（奴隷でない身分）の成人男子の直接民主制で行なわれていました。法廷の判決も何百人もいる陪審員の投票で決定されました。そこでものを言うのは理性に働きかける論理（Logic）ではありません。人間の感情を左右する言葉の技術です。アリストテレスはその技術（Techne Rhetorike）を研究対象としました。それが今日レトリック（Rhetoric）と呼ばれるものです。修辞学や修辞法と訳されますが、説得術が一番相応しい日本語でしょう。論理的に正しいことと説得力があることは全く違います。それを見分ける能力は訓練の賜物です。科学技術や法律の分野では専門家の卵である学生に対して訓練が行なわれます。しかし日本の文学部ではその教育が為されていないようです。これではいつまで経っても専門家は育たず、学者を自称するだけの人たちが欧米の後追いでしかない研究ごっこを繰り広げることとなります。論理とレトリックは表裏一体です。アリストテレスがTechne Rhetorikeの冒頭で述べたように当然のことです。レトリックはヨーロッパで長い研究史がありますが、日本にはその一部の文彩（Figure）が紹介されるに留まりました。比喩や対句は演説者が聴衆の感情に働きかけるために説得術の一部として駆使されたものです。レトリックはそれがすべてだと思う人も少なくないでしょう。しかしレトリックの本質は他人の心を動かすことにあります。物も言い様で論理的でないものが一見論理的であるかのような錯覚を起こさせます。詭弁もレトリックの扱う範疇です。この本は日本語で読める数少ないレトリックの研究史の解説です。かつて講談社新書として出版されていたものが筑摩学芸文庫として復刊されました。レトリックの一般向きの解説書としては他に香西秀信さんの一連の著書があります。日本の人文学者の著書や論文を読むとき、説得のためのレトリックの虚飾を剥ぎ取り、その本質に迫るには大いに参考になると思います。レトリックを学ぶことは他人の論理の間違いを見抜く力を養う早道です。