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詩学 (光文社古典新訳文庫)

によって アリストテレス

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ペーパーバック : 413ページ ページ
作者 : アリストテレス
出版社 : 光文社 (2019/3/8)
コレクション : 本
ISBN-10 : 4334753973
フォーマット : 文庫
発行日 : 2019/3/8
平均的な顧客フィードバック : 4.1 5つ星のうち(3人の読者)
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私が本書に興味を持ったのは、もっぱら、ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』との関連であり、後には、キリスト教との関連によってでした。つまり、アリストテレスの哲学自体には、ほとんど興味がないし、まして「ドラマ創作論」であり「悲劇論」としての『詩学』そのものには、まったくと言っていいほど興味がありません。ただ、本書「古典新訳文庫」版には、訳者による、幻の「『詩学』第2巻・喜劇篇」に関する文章があるので、この機会に、『薔薇の名前』において謎めいた印象を与えた、アリストテレスの『詩学』(本編)の方も、合わせて読んでおいて良いだろう、と考えたのでした。『薔薇の名前』では、中世の修道院での連続殺人事件が描かれます。その謎を、「清貧」を旨とするフランシスコ会修道士であるバスカヴィルのウィリアムが解くという、『バスカヴィル家の犬』(コナン・ドイル)などで知られるシャーロック・ホームズ譚をふまえた探偵小説の形式で描いたのが、この名作小説というわけです。『薔薇の名前』の舞台となる中世の修道院には、迷宮構造を持つ「ヨーロッパ随一の図書館」が備わっているという設定になっており、この図書館に、「幻の書」である「『詩学』第2巻・喜劇篇」が「禁書」として秘蔵されているのではないかと、主人公のウィリアムは疑っています。ウィリアムは「知の人」ですから、幻の「『詩学』第2巻・喜劇篇」の中身を知りたくてしかたがない。しかし、それは何よりも「キリスト教の教えに反することが書かれた禁書」なのですから、そう簡単には読ませてもらえない。ましてや当時「異端の疑いあり」とされたフランチェスコ会の修道士ですから、ウィリアムが、この図書館の気難しい館長から、閲覧許可を得るのは容易なことではなかったのです。ではなぜ、「『詩学』第2巻・喜劇篇」は「キリスト教の教えに反することが書かれた禁書」扱いにされた(という設定になっている)のでしょうか。それはこの書物が「笑いを肯定した理論書」だと目されたからでしょう。現存する『詩学』(第1巻?)を見れば明らかなとおり、著者のアリストテレスは、優れた「悲劇」や「喜劇」といったものを、観客に「カタルシス(精神の浄化)」をあたえるものとして、肯定的に捉えていますから、「『詩学』第2巻・喜劇篇」も「笑いの効能」を肯定的に、より詳しく論じたものであろうというのは、誰にでも想像できるところです。しかし、ではなぜ、所詮は「喜劇論」でしかないであろうアリストテレスの「『詩学』第2巻・喜劇篇」の存在が、キリスト教的に重大問題視されたのでしょうか。それは、「万学の祖」と呼ばれたアリストテレスの体系的哲学は、スコラ哲学と呼ばれた中世のキリスト教神学が構築される上で、その学問的モデルとされたものだったからなのです。つまり、ギリシャ時代の哲学者であり、当然キリスト教徒ではなかったとしても、アリストテレスは、キリスト教神学の根幹に関わる、最も尊敬された大人物だったのです。ですから、そんな大人物が「キリスト教の教えに反することを、肯定的に書いていた」という事実が知られてはマズい。そこで「『詩学』第2巻・喜劇篇」は秘匿され、やがて失われて、現代には残らなかったのではないか、という現実につながる話にもなるわけです。それにしても「そんなにマズい本なら、秘匿などせずに、ぜんぶ燃やしてしまえば良かったではないか」という当然の疑問が出てきます。しかし、当時のキリスト教会は「異端の書物」を必ずしもすべて「焚書」にしたわけではありません。「異端の書」を焚書にするのは、その理論が世に広まるのを防ぐためですが、焚書にしさえすれば「異端の教え」そのものが消えてなくなるわけではありません。信者たちは、その教えを口伝えにすることができたからです。したがって、キリスト教会としても、焚書だけではなく、つねに相手を論破するための資料として「異端の書」を残しておく必要がありました。それで、そうした「禁書」は、修道院の図書館などで厳しい管理の下に保管されていたというわけです。では、次に「そもそも笑いを肯定することの、どこがマズいのだ」という疑問について書きましょう。「笑いの否定」というのは、必ずしもキリスト教会の終始一貫した考え方ではありません。しかし、そういうことを非常に重視していた人たちが少なからず存在し、その考え方が力を持った時代や地域があった、ということなのです。では、なぜ「笑いの否定」などという考えが生まれたのでしょうか?それは、キリスト教の「禁欲」の考え方と密接に関わる、本質的なものです。いまでもキリスト教(カトリック)の司祭は「独身」であり、「性」に関して禁欲的であることが求められています。なぜかと言えば、「性欲」とか「食欲」とか「名誉欲」といった、およそ人間的な「欲望」というものは、人間をして「神」から遠ざけるもの(世俗的な阻害要因)だと考えられたからです。ですから、一般信者ならば結婚し、セックスをして子を成してもかまいません。と言いますか、聖書にも『産めよ増やせよ地に満ちよ』(創世記)に書かれているくらいですから、子づくりをするのは、むしろ奨励されてさえいるのですが、問題は、あくまでもその目的は「子づくり」であって、そこに「快楽」を求めてはいけないというのが、キリスト教が理想とする「禁欲」的な考え方なのです。(避妊や中絶、同性愛が禁止されるのも、このためです。産まない性は、悪なのです)そのため、神に仕える者となった司祭は「快楽」を求めてはならない。そこで「禁欲」が強いられたというわけです。結局「快楽」というのは「気持ちいい」だけで、何も生まない、というのが、キリスト教的な考え方です。そして、そんな無価値なものに気を取られるのではなく、ひたすら「神を求めよ」という理屈になります。ですから「性欲」と同様、「笑い」と言い「カタルシス」と言っても、それは「快楽」の一種であり、何も生まないばかりか、かえってその「快楽」性の故に、神を求める心の阻害要因となりがちなので、それは「間違ったもの」「キリスト教の教えに反するもの」というように考えられるようになったのでした。そして、それを正当化する理屈として「聖書の中に、イエスが笑うシーンは一度もなかった(イエスは、悲しみ怒りはしたけれど、笑わなかった)」とされたのです。で、こうした禁欲的態度が求められたのは、「修道士(修道女)」の場合も、まったく同じです。修道士というのは「司祭」だとは限りません。修道院には、一般信者たち(の子弟が主)が入り、そのなかで「司祭」の権限を受ける者(男性)もいただけです。つまり、修道士とは「出家信者」だと考えれば良い。彼らは「在家」のまま信仰するのではなく、より本格的に信仰したい、しようと思って、在家の立場や家族や財産を捨てて、神との関係に専念するために、修道院に入ったのです。ですから、修道士が「禁欲」的であることを求め、求められるのは、いわば当然のことだったのです。このようなわけで『薔薇の名前』で描かれた修道院においても、禁欲が求められ、「笑いの効能」を肯定した「『詩学』第2巻・喜劇篇」は、禁書として厳重な管理の下に置かれたというのもまた、当然のことだったです。修道士たちは、俗世との縁を切り「祈りと読書と労働」の日々を通して、神との直接対面をめざしました。俗世のしがらみや快楽への欲望を断ち切ることで、神に接近できると信じたのです。しかし、事はそう簡単ではありませんでした。前述のとおり、『薔薇の名前』の主人公であり探偵役のバスカヴィルのウィリアムもまた、「清貧」を旨とするフランシスコ会の修道士でした。言うまでもなく「清貧」とは一種の「禁欲」です。だから、ウィリアムも「禁欲」自体には反対ではなかったものの、しかし「祈りと読書と労働」の日々をおくる修道士とは、一種の「知識人」であり、それは異端に対する理論的闘争者としての任務を持つのと同時に、純粋に「知を愛する」人でもあったのです。そして問題は、この「知を愛する」ということでした。「知を愛する」とは、平たく言えば「知的欲望が強い」ということであり、これは、ある意味でキリスト教的「禁欲」に反する、人間的な「欲望」だとも言えるでしょう。しかし、キリスト教会としても「知的であること」を否定するわけにはいきません。そんなことをしてたら、異端との論争に勝つこともできず、唯一信仰としての特権を守ることができないからです。それで、ここに「キリスト教の根本的ジレンマ」が生まれてしまいます。一一「知は、際限なく求めても良い、信仰的美徳なのか」という難問です。現代の私たちにはわかりきった話ですが、「知を求める」ことと「信仰を堅持する」こととは、多くの場合、両立不能です(私は先日、三田一郎『科学者はなぜ神を信じるのか』という本の欺瞞を、徹底的に批判しました)。実際、近代になって、科学的思考が発展していくと、キリスト教の教義や「聖書に書かれていること」というのは、そのままの「現実」や「歴史的事実」ではなく、「ある種の比喩」でしかない、ということにせざるを得なくなってきました。現代科学は、神の居場所をどんどん狭めていき、神を「隙間の神」と呼ばれるところまで追い詰めてしまっています。また、だからこそ、そうしたことへの反動として、現代ではキリスト教でも「原理主義」者と呼ばれる人たち(トランプ大統領を支持する「福音派」などがそれ)が出てきて、「ダーウィンの進化論は間違っている。人間は猿から進化したものではない。神が直接お造りになったのだ。そして、世界は45億年も前に生成されたものではなく、せいぜい数千年ほど前に、聖書にもあるとおり6日間で創られたものにすぎない」などといったことを、本気で主張するようにもなったのです。で、話を『薔薇の名前』に戻しますと、バスカヴィルのウィリアムもまた、すでにこうした「知と信仰のジレンマ」を抱えた人だったと言えるわけです。彼が、この修道院連続殺人事件を解決したのも、彼に「真理(真相)を求める意志」があったからですが、言うまでもなく彼のこうした「真理(真相)を求める意志」は「諸刃の剣」であり、信仰を「神秘」に止めておいてはくれません。彼がその「知への愛」によって真理を求め続ければ、いずれその「知の剣」は、自身の「信仰」へも向かわざるを得ないことを、彼自身も感じてはいたのです。そして、この物語では、そこまでは描かれないものの、バスカヴィルのウィリアムのモデルである、中世の神学者オッカムのウィリアムは、その知の求めるところに従って真理を探究し、それを語ったがために、異端としてキリスト教会から破門され、教会権力に命を狙われ、最期は、逃亡の地でペストにかかって客死した、と言われています。アリストテレスの「『詩学』第2巻・喜劇篇」は、こうした人間の「信仰をめぐる悲喜劇」を笑い飛ばす力を持っていた書物なのかも知れません。だからこそ、その存在は、キリスト教会からも危険視されました。しかし、「『詩学』第2巻・喜劇篇」は、幸か不幸か、今の世には残されなかった、ということになっており、だからこそ「笑いの人」ウンベルト・エーコは『薔薇の名前』において、幻の「『詩学』第2巻・喜劇篇」を、ひととき甦らせてみせたのでした。

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